2021年12月22日発売の書籍『教養(インテリ)悪口本』(堀元見著・光文社刊)より、今日から使えるインテリ悪口を抜粋してお届けします。イラッときたときやモヤモヤしたときに使って、ディスりたい気持ちを教養に変えてみてはいかがでしょうか。 「カウンセリングを受けた」と聞くと、あなたは何を想像するだろうか。 僕は何となく、人の良さそうな初老の先生が「うんうん。辛かったねぇ。あなたは悪くないよ。大丈夫大丈夫」と言っているイメージがある。完全なステレオタイプである。受けたことがないのでテキトウなイメージで想像してしまう。 そう、カウンセリングと無関係でいられるぐらいには、僕のメンタルは頑健だ。人をインテリ悪口で小バカにしたり、その結果訴訟沙汰になりかけたりしても、心身ともに概ね健康なまま生活できている。もう少しメンタルが弱かった方が社会のために良かったのではないかという気もするが、それはここでは考えないことにする。 ところが、僕のステレオタイプと違って、実際の心理療法は実に多岐にわたるようだ。 特にビックリしたのは、「論理療法」と呼ばれるものだ。先日、ひょんなことから『論理療法の理論と実際』という本を読んだのだが、これがもうカウンセリングのイメージと全然違って衝撃だった。論理療法とは、こういうものらしい。 論理療法は……その思考を論駁して他の考え方(ビリーフ)に修正するように説得する (『論理療法の理論と実際』p5) 「論駁」という言葉、ギリシア哲学の本以外で初めて見た。「ソクラテスがやるアレ」だと思っていたのだが、どうやら現代日本でもやる人がいたらしい。青天の霹靂である。 「論駁」は、「相手の説の間違いを論じて攻撃する」みたいな意味である。弱っている人にそんなことをやっていいの? 泣いちゃわない? という感じがするが、本を読む限り、そうでもないらしい。 別に精神攻撃をするワケではなく、「その考え方って間違ってない?」と間違いを指摘して説得するので、上手く行けば「心が軽くなった!」みたいになるそうだ。 どうしても僕のイメージだと「論駁」は古代ギリシア哲学の本でソクラテスが相手をボコボコにするアレだと思ってしまうのだけれど、論理療法で言う「論駁」はそういうのではないらしい。 だとすると、「論駁」という言葉を使うのが悪いのではないか? もっと平和な言葉でいいのでは? と思った。しかしやはりそうではないらしい。読んだ本にはこう書かれていた。 思考を活発にするには攻撃性を外向化していく必要がある。弱気になるとクライエントの思考に屈服してしまう。クライエントのイラショナル性を斬るための思考ゆえ、攻撃性が必要である (『論理療法の理論と実際』 p11) 論理療法には攻撃性が必要らしい。つまり、人畜無害な表現ではない「論駁」がピッタリ来るのだろう。彼らは患者の誤りを攻撃するのだ。すごい世界だ。 まさか医療の現場で攻撃性が必要とは、夢にも思わなかった。こういう意外な主張に出会って常識を破壊されるのが勉強の喜びといえよう。 さて、論理療法で論駁される考え方のことを「イラショナル・ビリーフ(不合理な信念)」と呼ぶ。 典型的なものとしては、「全ての人に好かれないといけない」や、「仕事は少しでもミスがあってはならない」などがある。こういう考え方をしていると、人と接するのが怖くなったり、仕事でミスをしてめちゃくちゃ落ち込んだりする。 論理療法のカウンセラーはこのイラショナル・ビリーフを引き出しながら、「全ての人に好かれるのなんてムリじゃない? あなたも嫌いな人はいるでしょ?」と論駁していくワケだ。イラショナル・ビリーフがなくなれば、生きやすくなることが多い。 イラショナル・ビリーフは色々なものがあるのだが、「完璧主義」も典型例に挙げられている。 「常に完璧な仕事をしなければならない」とガチガチに思っていると楽しく働けないのは間違いないだろう。自分にも他人にも、常に完璧を要求するべきではない。完璧主義は論駁されるべき信念なのである。 ということで、面倒な完璧主義者をバカにしたい時は「論理療法で論駁された方がいい」と言うといいだろう。
使用例
「マイクロソフトはビル・ゲイツによって作られたけど……」 「待って!マイクロソフトはビル・ゲイツとポール・アレンによって作られたんだけど、なんでポール・アレンの話に触れなかったの? 喋る時はちゃんと正確な情報を喋らないとダメだよ?」 「おっ、君、論理療法で論駁された方がいいね!!」 参考文献 ・ 國分康孝編『論理療法の理論と実際』(誠信書房)
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