元/現「オーリー(Ollie)」編集部のメンバーたちによる《あんときのストリート》を振り返るウェブメディア「ミミック(MIMIC)」が、FASHIONSNAP.COMに登場!ストリートファッション黎明期である80年代後半から、絶頂を迎える2000年代初頭までを《あんときのストリート》と定義して当時をゆる〜く掘り起こしていきます。今回のテーマは、オーリーや「グラインド(GRIND)」「パーク(PERK)」の出版元であり、2020年3月に破産のニュースが流れた株式会社ミディアム(MEDIUM)について。当時のストリートシーンとミディアムの黄金期を過ごした4人が古巣を振り返ります。
ADの後に記事が続きます
98年〜00年
ストリートカルチャーの成熟と共に部数を伸ばしたオーリー
野田:まずは自己紹介がてら、各自がミディアムに入社した年ってことで。僕は2000年入社でオーリー編集部に配属されました。当時は遠山さんがデスクでミディアムの社長が編集長をやっていて、初めて作った号はDJ クラッシュ(DJ KRUSH)さんとアコ(ACO)さんが表紙の8月号。2004年まで在籍していました。
遠山:俺は1998年、夏の終わりぐらいに入社。初めて制作に関わった号はハスキングビー(HUSKING BEE)が表紙の11月号。編集長を2001年9月号から2003年12月号までやった。ミディアムには2006年まで在籍してたとおもう。編集長退任になってから部署異動があったりで、そのへん曖昧なんだよね。それで、その後色々あって2019年にまたオーリーの編集長に戻ることになるんだけど、まさかミディアムの最期を見届けることになるとは......。
高柳:自分は2001年入社。クーリオ(Coolio)とオジロザウルス(OZROSAURUS)が表紙の5月号がスタートですね。在籍は2005年までです。
瀬戸:僕は大学卒業してからで2004年の4月に入社。最初からオーリー編集部に配属で、ミディアムには2006年まで在籍していました。
遠山:最初に関わった号の表紙は?
瀬戸:「ア ベイシング エイプ(A BATHING APE (R))」関連だったような気がしますね。表紙がNIGO®さんかファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams)だったような......。
遠山:でたよ。これがまず世代の違いね。自分が編集スタッフとして初めて参加した記念すべき号を覚えないという、この執着のなさ(笑)。
野田:僕なんて発売日にコンビニ行って「おぉー名前があるー!」ってちょっと感動しましたけどね。
瀬戸:いや、あの......なんも言えねぇっす(笑)。
野田:まぁ、それはさておき、我々の古巣ミディアムが2018年に30周年を迎えたものの2020年3月に残念ながら破産してしまいました。僕たちが在籍していた2000年前後はストリートシーン的にもミディアム的にも全盛期だったと思うので、FASHIONSNAP.COMでの第1弾となる今回のお題として、自己紹介も含めてミディアムと当時のストリートシーンを振り返っていきたいと思います。
遠山:俺がミディアムに入社した1998年は、オーリーも含めたストリートシーンの絶頂期がすでに見えかけている時期で、このままいくなっていう勢いはあったね。でもそのときのミディアム(当時はビードリーム)自体はまだそんなにストリートだ、スケボーだ、音楽だっていう感じじゃなくて普通の編集プロダクションの雰囲気だったんだよね。
※1998年はモデルのキリ(KIRI)とアラタ(ARATA)がブランド「リボルバー(REVOLVER)」を立ち上げたほか、「グッドイナフ(GOODENOUGH)」が活動を休止し、半年後の1999年に再開するなどのトピックがありました。
野田:ミディアムの元を辿っていくと、旅行誌だったり、スノボー雑誌の色んな媒体の制作を丸々一冊請け負う感じなんですよね。
遠山:そう。オーリーの母体となるSNBっていうスノボーをメインに取り扱う雑誌があって。その企画を社長がオーリーの出版元となる三栄書房(現:三栄)に持ち込んだところからオーリーの歴史が始まったんじゃないかな。
高柳:僕たちが編集に携わることになるオーリーとは別に、もっとずっと前に同名のスケボー雑誌がありましたよね?
※吐夢書房が出していた同名のスケボー雑誌。
遠山:そう!実は俺もその雑誌だと思って応募したのよ。また復活したんだなと勝手に思い込んでて。そしたら全く別だったという。
瀬戸:当時からオーリーは、「ファッション・スケボー・音楽」という三本柱が編集方針だったんですか?
遠山:正確には「ファッション×サウンド×エクストリーム」ね(笑)。でもおそらく黎明期はアクションスポーツ、いわゆるエクストリームスポーツが中心なんだよね。スケボーやスノボー以外にもインラインスケートの情報なんかも掲載してた。それで俺が入る少し前くらいからドラムンベースだったりヒップホップ、メロコア、ハードコア、ミクスチャーなんかの音楽シーンが盛り上がりつつあったので、徐々に取り上げはじめて全盛期のオーリーの形が作られていった感じかな。
野田:でもそういう時代って「仲の良い友だち周り」みたいな、あくまで個人レベルの規模だったりしますよね? 得てして、オーバーグラウンドな存在になる一歩手前の一番面白い時期だったりすると思うんですけど。
遠山:そうだね。まだマネタイズという概念が浸透していない、純粋な時期というか。俺はそのタイミングにギリギリ間に合ってよかったなって。
野田:それこそミミックでは、80年代後半から2000年代前半までを《あんときのストリート》と定義して振り返っているけど、2000年を過ぎてくるとエイプや「ステューシー(STÜSSY)」といったストリートブランドを着ている芸能人をテレビで見かけるようになったり、エイプに至ってはペプシコーラのような大企業とコラボしたり、一気にオーバーグラウンドな存在になっていきますもんね。
※木村拓哉さんがドラマ「ヒーロー(HERO)」でエイプのレザーダウンを着用したことも有名な話。ヒーローは2001年1月から放送。
遠山:いわゆるクロスオーバー・カルチャーというのが成熟した時期なんだろうね。スケボー、音楽、スノボー、グラフィティといった要素が混ざり合ってストリートファッションという大きなカテゴリーになっていったから。
野田:2000年の少し前というと、実は「ナイキ(NIKE)」が苦戦していた時期なんですよね。当時はエア マックス95(AIR MAX95)を中心としたハイテクブームの反動からか「すべてのアスリートのために」と、ファッション誌への貸し出しを禁止するなど、ストリートとは距離をおいていた時期みたいで。結果的にそれが不振につながり、その反省からか以降は一気にストリートとの距離を縮めて、99年の裏ダンクを皮切りに日本が世界のスニーカーシーンの中心となる黄金期が訪れることになる。
※裏ダンクはツートーンカラーのダンクのスウッシュとボディカラーを反転させたカラーリングのもの。1999年に日本から世界に向けて発信するプロダクトとして製作され、今でも名作として高い人気を得ています。
遠山:2000年って、90年代にアングラな世界に広がっていたとてつもないパワーが一気に表面化したタイミングなんだろうね。 オーリーもその後押しのおかげで一般的なファッション誌と肩を並べるくらいの部数になっちゃってさ。アングラなストリートファッションを扱っていながら15万部とか普通に売れちゃうんだもん(笑)。今じゃ考えられないよ。
野田:やっぱり節目ではあったんでしょうね。ちなみに(藤原)ヒロシさんが97年に始めた「レディメイド(READY MADE)」は、シーンが公になる前の99年末に終わってるんですよ。まだまだ人気絶頂だったにも関わらず、そういうタイミングできっちりと終わらせている。これって少し前の「ザ・プール青山 (the POOL aoyama)」や「ザ・パーキング銀座(THE PARK・ING GINZA)」にも通じる話なんだけど、やっぱり時代の読みがさすがだなぁと。
※レディメイド跡地には現在、2019年9月に「ヘッド・ポーター(HEAD PORTER)」からリニューアルした新ブランド「ラミダス(RAMIDUS)」が店舗を構える。レディメイドでは「フィネス(FINESSE)」などを取り扱っていました。
00年〜03年
オーリーガールズやスラッシャージャパンなど、ストリート系創刊ラッシュの黄金期
遠山:2000年になるとミディアムでは、 オーリーガールズ(オーリーのガールフレンド誌)も創刊したよね。クルゼ (=野田)が入社したときには、もうあったんだっけ?
野田:ありました。入社初日が2号目の締め切り間近だったっぽく。座った席がオーリーガールズ編集部のすぐ後ろだったんですけど、オーリー新人スタッフの登竜門である読者からのハガキを文字起こししていると、後ろでオーリーガールズの編集長らしき人に怒鳴られまくった人が、席に戻ると泣きじゃくりながら机をグチャグチャにしてて......(苦笑)。エラいところに来てしまったと思いましたよ。しかもなぜか入社初日から泊まりだったし。
遠山:他にもスタイルソースっていう不定期に発売するムックもあったよね。オーリーがアングラストリート誌だとすると、スタイルソースは完全にファッション寄りでさ。
野田:スケボーのハウツー本(スケーターズバイブル)なんかも作っていましたよね。
高柳:僕が入社する2001年にはスラッシャー マガジン(Thrasher Magazine)の日本版として、スラッシャージャパンも創刊されましたね。
野田:2000年からの2年ぐらいでそれだけ媒体を増やして、しかも全部ストリート界隈の雑誌という。当時のシーンはそれだけ広大でひと山当てる可能性も高かったということですよね。もっといえば、その時期にインフォレスト社からサムライマガジン(Samurai magazine)も創刊されますもんね。
高柳:そして2001年に遠山さんがオーリーの編集長になると。
遠山:そうだね。
野田:通常のファッション誌は、ブランドを紹介するなら普通にブランド切りで紹介するのがオーソドックスだと思うんですけど、オーリーってそれが許されてなかったじゃないですか。あくまでブランドは、そのシーンを作り上げている要素の一つであるという視点で。だから、シーンを取り巻く人・ブランド・場所・イベントなどを包括的に落とし込んだ誌面構成じゃないとOKがでないという。カルチャー的な側面を切り取る上ではそれがベストなんでしょうけど、一方で強引にこじつけるところもあったのでブランドに嫌われることも多く、入社当時は本当に取材のアポが入らなかった。でも遠山さんになってからは、柔軟性が出てきてファッションブランドをそのままブランド切りで紹介することができるようになったから、すごく紹介しやすくなりました。
遠山:シーン自体がストリートブランド全盛期だったこともあって、徐々にファッション色が強くなっていくんだよね。そこに合わせて、それまで少し弱かったオーリーのファッション面を強化させたから、ファッション・スケボー・音楽の三本柱のバランスが良くなったとは思うけど。
野田:サムライはファッション寄り、オーリーはファッション・スケボー・音楽の三本柱という感じで、ストリート・ファッション誌とストリート・カルチャー誌という住み分けがされてましたよね、読者の皆さんに伝わっていたかは謎ですけど(笑)。
遠山:うん。めっちゃ悩んだけど、当時はそれでやってみるしかないかなって。
高柳:連載陣もT19の大瀧さん(大瀧ひろし)、掟(ポルシェ)さん、チョッパーさん、クリリンさんなどなど、ちょっと他所では見れない個性派揃いで(笑)。
遠山:そこはサムライに負けない自信があったよ!ウチは本物しか出さないぞって(笑)。
2004年以降
グラインドやパーク創刊でファッション性を強化
野田:そしてこのメンバーの中では僕が最初にミディアムを去ることになります。2004年の1月に連載を担当していた「マッドフット!(MAD FOOT! )」に転職するんですけど、そのあと少しして遠山さんが編集長を退任することになると。
高柳:そうですね。千葉くん(=千葉琢也。現SILVER編集長)にバトンタッチすることになるんですけど、ストリートブームが下火になりだしたタイミングなのに会社からは部数を求められて大変だったと思いますよ。
※千葉琢也。2004年から20017年までオーリーの編集長を務める。グラインドやパークの編集長も兼任し、2018年5月にミディアムを退社。
瀬戸:僕が入社したのがまさに2004年なんですけど、その頃のオーリーは完全にファッション誌になっていましたね。巻頭はずっとファッションストーリーが続く大作りのページで、その後のページはアイテムカタログ。ガチャガチャした誌面ではなくスッキリとした感じでした。あとはヤナさん(高柳)の言う通り、完全にストリートのマーケットが縮小していくのをみんな感じていた状態で、次は何かなー?という停滞期だったと思います。
遠山:瀬戸がいるときに Ollie EX(GRINDの前身となるムック本)が始まったんだっけ?
瀬戸:ちょうど僕が辞める2006年にスタートしたと思います。
高柳:ストリートのマーケットが下り坂になっていくと、どうしてもブランド受けの良いイメージ寄りの誌面にして、広告費用で賄っていくのが現実的な選択になるもんね。
遠山:このストリートのムーブメントって、バンドとかアーティスト単体で見たら息が長い人やグループはいるけれど、ブームになっちゃうとやっぱり長くは続かないんだよね。UKオリジナルパンクですらムーブメントとしてみたら3年くらいで終わっちゃったわけで。そう考えると短命というよりもそのサイクルが自然なのかなと今になって感じる。
野田:クラブカルチャーからクラブキッズが生まれ、そこから裏原ブームへと繋がっていく。それと同時にヒップホップも次世代の人たちが、さらにレベルを押し上げ新しいブームを起こして。一方でバンドブームからは恵比寿系というシーンが生まれたりと、一つ一つは3年〜5年くらいのサイクルなのかもしれないけど、アングラなシーンにおいてはそういうブームが立て続けに起こっていて、2000年頃を境に一気に表面化したという感じですよね。でも2000年代の中盤から後半に差し掛かってくると、流れが少しストップしてしまったというか。
遠山:新しいものを全部出し切っちゃった感があったよね。だけどクラブキッズも裏原も、最初は個人、あるいはごくごく少数の異端児というかスキモノたちの集合体だったわけじゃん。だから、今の2020年代だからこその芽がまた新たに出てくる、というかすでに出てきているわけで。
瀬戸:遠山さんの編集長時代は今回で2周目ですが、ストリートでは新たな周期が始まっているということですね。
遠山:そういった新種を発見したり、意識・無意識関係なく、新しいムーブメントを作っている人たちがこれまでのストリートカルチャー史のどういった部分に影響を受けてるのかを分析することは意識していて、再度この時代に編集長をやるからには、これまでの経験をフルで活かしていこうと思っている。昔からそういう分析は結構好きだから、コンテンツを考えるのが結構楽しい。
野田:当時と違うのは、遠山さんは自分の会社(+chip)があるから今回は外注としての参戦じゃないですか。その立場でありながら、編集長として再スタートするオーリーを統率していくという難しいミッションではありますよね。
遠山:助っ人外国人が監督をやるような感じだから、難易度は結構高いと思う。本誌だけじゃなくてウェブコンテンツだったりSNS、動画なんかも戦略を練って展開していかなきゃだし、改めて色々な人たちに協力をお願いしていくことも当然必要。でも、今回のミディアムの件でハッキリと"新生"オーリーということが宣言できるから、新たに構築していく感じが強いかな。
あらためて古巣ミディアムを振り返って
野田:足早ではありますがオーリーを中心にミディアムの歩みを振り返ってきましたが、やっぱりなくなってしまったのは寂しいですね。正直、給料も安かったしハンパじゃない激務だったけど、仕事している感覚ゼロでめちゃくちゃ楽しかったですし。
高柳:合わない人はすぐに辞めちゃってましたけどね。
野田:拘束時間は朝から朝までって感じで、めっちゃ長いんだけど、実は拘束されてないじゃん。途中でライブに行こうが友だちと飲みに行こうが、正直なんでもありだったし。もちろん締め切りまでにちゃんと終わらせるというのは前提だけど。
遠山:そもそも俺は育ってきた家庭環境が裕福でもなんでもなかったから、少年時代からお金やモノがなくても楽しい遊び方を友だちと独自に編み出さないとやってられなかったのよ。だから超キツい仕事でもみんなで笑いながらやっていくっていう方針に自然となっていったんだと思う。そうでもしないと生きていけなかったよ、マジで(笑)。
野田:そういった体制を作ってくれた先輩たちや小言を言いながらも容認してくれた社長に感謝ですよ。
高柳:途中から野田さんが進行管理担当になったじゃないですか。あれ、野田さんが管理してなかったらエラいことになってましたよね。
遠山:発売されてないね。みんなで喰って、呑んで、喋って、寝て、終わりだよ (笑)。
野田:叩き起こして原稿を書かせる。締め切り前の仕事はほぼそれでしたからね (笑)。鬼にならないとあの状態ではマジでヤバかったので。
高柳:メチャクチャでしたよね。でも、ほんとに楽しかったので会社にいたいと思ってましたもん。
遠山:俺はいつもあとで社長に呼び出されて、まとめて怒られてたんだけどね(笑)。
高柳:そうだったんですか?
遠山:当たり前だよ!会社も50人規模でそこそこ大きくなってきているのに、朝出社したらフロアのそこらじゅうで寝てるんだもん(笑)。まぁ、厳重注意して、そのあとはスルーだったから容認してくれていたんだろうけど。
高柳:ほんと自由にやらせてもらってました。社長にも遠山さんにも感謝です。
遠山:夜中にみんなでスケボーしに行ったり、徹夜明けみんなでサウナに行ったり。ミディアム自体が割と自由な社風というのもあったんだけどさ。
野田:そんな環境ということもあり、当時のミディアムの特徴って超俗人的というか、担当編集が個々に好きなカルチャーや人をプッシュしていく感じなので、編集長どころか編集スタッフが一人でも変わったら掲載される人もブランドも変わるじゃないですか。
遠山:確かに。時代もあるんだろうけど。
野田:それって良い時は良いですけど、安定感に欠けちゃう部分がありますよね。
遠山:編集プロダクションのビジネスモデル自体が、安く雇用してある程度まで頑張ってもらうっていう感じだからね。社員も経験を積んだら次のステップへ、と割り切っている部分もあるだろうし、人の出入りが激しいのは致し方ないのかなと。
瀬戸:今は特にそういう風潮が強くなっているのかもしれませんね。ひと昔前のアパレルの販売員さんのように、条件は悪くても好きだから続けるみたいなのが非現実的になってきたというか。
高柳:当時は、バックボーンありきというか、背景を持っている人や物が格好よかったですし、オーリーでの掲載対象も売れてる売れてないは度外視だったじゃないですか。それが徐々に社会がインスタント化してディグるのやめちゃったり、ディグるにしてもネットがあるのでそもそも雑誌を手に取らなくなって。そういう時代の変化にもあわせていかなきゃいけないので、やっぱり大変ですよね。
野田:僕が入社したときに痛感したのは、先輩たちの会話を聞いていて「この人たちの知識には絶対敵わない」と思う人が遠山さんを筆頭に何人かいて。でも、それだけの知識と経験を持っていながら、世渡り下手で不器用だったりするので、未だにお金に繋げられていないという(笑)。失礼ながらも、お金の面が不器用ってミディアム・イズムなのかもしれないなぁと。
遠山:ちなみにオーリー絶頂期に編集長をやっていたんだから、そこそこの報酬もらってちやほやされたり、良い時期もあっただろ?と思われがちなんだけど、俺はぜんぜんそんなことないんで。ミディアム在籍時の最高額の買い物なんて原チャリ一台だし、月の半分以上は会社にこもりっぱなしだったし(笑)。けど、めっちゃ楽しかったし、今でも仲良い人たちもいるし、得たものは大きかったなと思うよ。
野田:確かにお金には縁遠いですよね(笑)。僕たちがいた頃のミディアムって、編集スタッフの偏愛主義なところが強くて、営業面を含むマネタイズが得意ではなかったんですよね。たまたまマーケットが盛り上がっていた時代なので、ある意味では勝手に売れて広告も入ってくる時代ではあったけど、決してマネタイズに長けた会社ではなかった。やっぱりこれはミディアムの伝統で、そこが今回の破産のニュースに繋がってしまったのかもしれませんね。
遠山:んー、どうなんだろね。当時からだいぶ経ってるからなぁ(笑)。俺たちがミディアムを去った後、つまり俺の次にオーリーの編集長になったバーチ(千葉)の体制がどんなものだったのか。それで結局、彼もミディアムを去ったわけじゃん。それが会社にどんな影響を与えたのかは実際に体験していないからなんとも言えないよね。社長からは去年俺が編集長に復帰するときに、これまでの経緯はひととおり聞いたけどさ。
野田:ホットドッグ・プレス(Hot-Dog PRESS)、ブーン(Boon)、アサヤン(asayan)、ゲットオン(GET ON !)、ストリートジャック(street JACK)、サムライ......。メンズ誌もバタバタ休刊していった時代だったわけだし、古くからやっている名の通った雑誌だとしても、実売だけじゃ成り立たなくなったのはたしかですよね。
高柳:僕たちの時代は誌面作りに集中していればよかったですが、今は特に広告やウェブ、SNS、さらにはイベントだったり、それぞれ戦略を練って多角的に展開していかないと難しいんでしょうね。でも月刊誌っていうサイクル上、どうしても本誌の制作だけで手一杯という。しかもそれを実行できる経験豊富な人材なんて、なかなかいないですもんね。
遠山:うん、そうだね。オーリー、グラインド、パークという各媒体のポテンシャルって、すごく高いんだよ。けど、いま話したような展開が雑誌不況や人材不足で実行したくてもなかなかうまくまわらなくて。どうにかギリギリまで踏ん張ったけど、残念ながらこういった結果となってしまった。俺個人の見解としては、そんなところかな。
野田:復活が決まったオーリーですが、今後はどういった方向に進んでいくんですか?
※広告代理事業を営むトライアウトが譲受し、オーリー、グラインド、パークの3誌は継続することが2020年3月に発表されました。
遠山:再始動のタイミングで世界がどえらいことになっちゃって、なかなか厳しい状況なのはたしかなんだけど、やっぱりまずはウェブやSNSの活性化かな。本誌もデジタルも基本的には個人単位を含むリアルストリートで今起きていることをオーリーなりの解釈で発信していくというのは変わらず続けていくつもり。あとは我々が提唱している《あんときのストリート》から数えても、ストリートカルチャーが30年以上の歴史を積み重ねているわけじゃん。もちろんそういうのを破壊してまったく新しいものを生み出すのもストリートなんだけど、それぞれの世代がストリートで体験したことを繋げていくだけでも面白いコンテンツになると思うのよ。そういったことにチャレンジしていけたらユースだけでなく、もっと幅広い層に楽しんでもらえるのかなと。ストリートが好きな全ての人たちと一緒に楽しみながら、超頑張りますよ。
野田:楽しみにしています!まとめると、今のストリートを知るならオーリー、《あんときのストリート》を知るならミミックということで(笑)。
<<あんときのストリート発掘人>>
遠山 展行
1973年生まれ 埼玉県出身
プラスチップ合同会社 代表社員
Ollie 編集長
《あんとき》好きだったブランド
ロンズデール、ダメージ、初期ファクト
《あんとき》通っていたショップ
デタント、セルロイド、アウターリミッツ
《あんとき》聴いていた音楽
ポーグス、トロージャンズ、ダンスホール全般
今欲しい《あんとき》のもの
93年〜94年頃のスケシュー全般
野田 大介(クルゼ)
1977年生まれ 埼玉県出身
株式会社ファナティック 代表取締役
《あんとき》好きだったブランド
シュプリーム、ア ベイシング エイプ®、アンダーカバー
《 あんとき 》通っていたショップ
ノーウェア、レディメイド
《あんとき》聴いていた音楽
フリッパーズ・ギター、ブラックストリート
今欲しい《あんとき》のもの
アンダーカバーのオールスター型
瀬戸 航
1982年生まれ 東京都出身
株式会社ファナティック
《あんとき》好きだったブランド
ブラザーフッド、クレバークライム
《あんとき》通っていたショップ
シャフト、クレバークライム、チャプター
《あんとき》聴いていた音楽
レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、オールリビングシングス、大砲
今欲しい《あんとき》のもの
ブラザーフッドのパーカ
高柳 淳
1978年生まれ 群馬県出身
《あんとき》好きだったブランド
T-19、レピデックスシステムズ、ワードオブマウス
《あんとき》通っていたショップ
ヘクティク、ダイオード、ELT
《あんとき》聴いてた音楽
スチャダラパー、四街道ネーチャー
今欲しい《あんとき》のもの
東京エアランナーズの1stスタジャン
"そうだね" - Google ニュース
May 06, 2020 at 07:00PM
https://ift.tt/2SIqyYH
【あんときのストリート発掘!】元編集たちが語る時代を駆け抜けたオーリーと株式会社ミディアム史 - Fashionsnap.com
"そうだね" - Google ニュース
https://ift.tt/2KtL3nV
Shoes Man Tutorial
Pos News Update
Meme Update
Korean Entertainment News
Japan News Update
No comments:
Post a Comment