[サッカーキング No.010(2020年2月号)掲載]
2019年、テーム・プッキは“突如として”ノリッジとフィンランド代表のエースに変貌した。セビージャ、シャルケ、セルティックを渡り歩いた苦労人に何が起きたのだろうか。
インタビュー・文=クリス・フラナガン
翻訳=加藤富美
写真=レオン・ツェルノフラベク、ゲッティ イメージズ
“ヤツらはいつだって失敗だと言う。でも、俺たちはここにいる”
ここはノリッジのホームスタジアム、キャロウ・ロード。スタッフ用の食堂に現れたテーム・プッキは、壁の貼り紙を見つめた。大きな文字で書かれたメッセージ。プッキに宛てたものではないが、彼のサクセスストーリーを総括するのにこれほどふさわしい言葉はないだろう。
「そうだね」。プッキがこちらに笑顔を見せる。2019年は激動の一年だった。ノリッジを昇格へ導いた活躍が評価され、チャンピオンシップの年間最優秀選手に選出。29ゴールを決めて得点王に輝き、ハットトリックの数では1993年に生まれたクラブ記録を塗り替えた。2019年8月にはノリッジの選手で初めてプレミアリーグ月間最優秀選手賞を受賞している。
夏には婚約者のキルシッカと結婚し、プライベートも充実しているようだ。フィンランド代表としてはユーロ2020への出場を決めている。同国が国際主要大会の出場権を手にしたのは初めてのこと。プッキは予選10試合すべてに出場し、10ゴールを挙げている。
2018年の夏にブレンビーからノリッジに移籍したときは、1年半後に“背番号22”の公式グッズがフィンランドの街角で売られることも、ヘルシンキのナイトクラブに2000人の“プッキ信者”が集まって踊り明かすことも想像できなかった。ユーロ出場を決めた直後、母国は英雄プッキを称える声であふれていた。
「僕がこれまでの人生で残した最高の結果だ。それは間違いない。ワールドカップにもユーロにも出たことがなかったフィンランドにとって、本当に幸せな出来事だ。国民のすべてが望んでいたからね。これはずっと前から言っていたことだけど、僕の最大の目標はフィンランド代表としてユーロかW杯の本大会に出場することだった」
ターニングポイントはドイツ人指揮官との出会い
多くのフィンランド人と同様に、プッキは社交的なタイプではない。彼は落ち着いた口調で、自らのキャリアを振り返った。「子供の頃は父親とプレミアリーグを見ていた。でも僕はスペインでプレーするのが夢だった。フィンランドで一番人気のあるスポーツはアイスホッケーだけど、コトカではフットボールやバスケットボールのほうが人気だった。僕は当然、フットボール派だ」
フィンランド南東部のコトカという小さな都市に生まれ、今日にたどり着くまで、彼のキャリアはアップダウンの連続だった。少年時代に所属していたFCコーテーペーは破綻したが、それを受け継いだフェニックスクラブでプレーする彼のポテンシャルに注目したチェルシーとセビージャから声がかかる。
「セビージャは代表のアンダーチームでプレーする僕を見たらしい。16歳のときには、チェルシーのトライアルを受けた。ディディエ・ドログバと写真を撮ったのを覚えている。もう一度チェックしたいと連絡があったけど、行かなかった。契約できたとは思わないし、フィンランドに残って学校を卒業するほうがいいと思ったんだ。そのあとにセビージャが連絡をくれた。スペインでのプレーは夢だったからすぐに加入を決めたよ」
しかし、アンダルシアでの生活は楽ではなかった。「フィンランドでは南部でも冬はマイナス20度になるけど、真夏のスペインは40度を超えることもある。スペイン語の勉強も簡単ではなかった」
結局、リーガ・エスパニョーラでのプレーは途中出場した1試合に終わった。プッキは2010年にフィンランドに戻り、HJKヘルシンキに加入した。そこに40歳になったヤリ・リトマネンがチームメートとして入ってきた。フィンランド史上最高のフットボーラーといえば、まず名前の挙がる選手だ。「彼からはピッチ全体を俯瞰する方法を学んだ」
そこからプッキが躍動する。2011年8月、ヨーロッパリーグのプレーオフ第1戦でシャルケを相手に2ゴールを決めて、チームを勝利に導いた。シャルケがその数カ月前にチャンピオンズリーグの準決勝を戦っていたことを考えると、大金星と言っていいだろう。アウェーで行われた第2戦でもプッキはネットを揺らしたが、意地を見せたシャルケに1-6で敗れた。フィンランドに戻る機内で彼は沈んでいた。しかしその数日後には、ドイツへと引き返すことになる。
「シャルケ戦でのプレーが認められたみたいだ。契約書にサインしたのは移籍マーケットが閉まる日だった。当時のシャルケにはクラース・ヤン・フンテラールやラウール・ゴンサレスがいたから、先発できないことは分かっていた。でもステップアップにつながると思ったんだ」
プッキは在籍2年間で47試合に出場したが先発に定着することはなく、2013年に300万ユーロ(当時のレートで約3億9000万円)でセルティックに移籍する。23歳になった彼は、トップ選手を目指す最後のチャンスだと考えていた。
「巨大なクラブでファンも多い。すべての選手が重圧のなかで戦っていた。結局、ここでも期待したほどの結果を残すことはできなかった。何がうまくいかなかったのかは分からない。セルティックが掲げるフットボールについていく準備ができていなかったのかもしれない。ゴールを量産する気満々で海を渡ったけど、そうはいかなかった。自分にがっかりしたよ。クラブも僕に失望したと思う。解決策が必要だった」
見出した解決策は、デンマーク1部のブレンビーへレンタル移籍することだった。14-15シーズンからの2年連続9ゴールという数字は最低限の結果だ。気づけば、プッキは26歳になっていた。
「すると、ドイツ人のアレクサンダー・ツォルニガー監督が就任した」。プッキがターニングポイントについて話す際に必ず口にする名前だ。「ツォルニガーはクラブのメンタリティを一変させた」と彼は言う。「目が覚めた気がした。攻撃的な戦術も僕に合っていた。監督のおかげでいい結果を残すことができたんだ」
成功の理由は“別人”への生まれ変わり
プッキはそれからの2シーズンで合計48ゴールをたたき出した。契約満了が近づくなか、彼は再びスカウトの注目を浴びていた。
「ノリッジの名前を見たとき、『ここはないな』と思った。チャンピオンシップのフットボールはロングボールが主体で、体をぶつけ合うものだと思っていた。それは10年前の話で、実際は変わっていたんだけど。代理人には『あまりいい話じゃないね』と伝えた。そうしたら話だけでも聞いてみたらどうかと言われたんだ」
監督のダニエル・ファルケとスポーツダイレクターのスチュアート・ウェッバーは、ノリッジのフットボールについて熱心に説明した。それからプッキがシャルケにいる頃から動向を追っていたということも。「フットボーラーとしての僕をよく理解してくれていた。彼らは、僕がノリッジに合うと確信していたんだ」
それでも、1年目であれほどブレイクするとは誰も予想していなかった。「まさか昇格できるなんてね。加入前にチームのスタッツを見せてもらったんだけど、実際にプレーするまではどんな戦いをするか分からなかった。でもチームにポテンシャルがあるのは確かだった。そして転機が訪れた」
プッキはフィンランド代表としてUEFAネーションズリーグの最初の2試合を戦った。当時のフィンランドはヨーロッパで36位。同じリーグC・グループ3のハンガリーやギリシャよりランキングは低く、チームにもプッキにも、期待する声は全く聞かれなかった。
しかし、フィンランドはホームでハンガリーとエストニアに連勝を収めた。2試合ともスコアは1-0だったが、そのゴールはいずれもプッキが決めたものだ。ノリッジに戻ると、指揮官は早速ポジションを変更した。「それまでは攻撃的MFだったけど、代表ウィークのあとはストライカーとしてテストされた。僕に最も合っているポジションだ。そこですべてのスイッチが入った」
その後のミドルスブラ、レディング、QPRとの3試合で得点を挙げ、チームもこれをきっかけに昇格へのスイッチを入れた。ノリッジで1シーズンに25得点以上を挙げたのは、93-94シーズンのクリス・サットン以来だ。「正直驚いたよ」とプッキは笑う。「直近の2シーズンで結果を出していたから、ある程度の自信はあった。でも29歳だからね。それを考えると、期待以上だったよ。優勝して昇格を決めたときは感動した。デンマークにいる頃は、プレミアリーグでプレーできるなんて夢にも思わなかった。トップリーグには手が届かないと思っていた」
プッキがプレミアリーグでいきなり存在感を示したことに驚きはなかった。開幕戦でリヴァプール相手にゴールを奪って爪痕を残すと、第2節のニューカッスル戦でハットトリックを達成した。チェルシー戦でもゴールを決めたプッキは、8月のプレミアリーグ月間最優秀選手賞を受賞する。その後も勢いは止まらず、第5節のマンチェスター・シティ戦で決勝点を挙げ、3-2という衝撃の勝利をもたらした。「スタジアムの雰囲気がすごかった」と言うプッキの目は輝いていた。「フットボール人生で最高の思い出の一つだ」
彼の活躍はマレーシアとフィンランドのテレビ局で頭痛の種となった。マレーシアで「Pukki」は伏字とすべき(放送では“ピー”という音で消される)言葉らしい。プッキが大笑いしながら「ああ、その話は聞いた。何だかすごい意味なんだってね」と言う。「フィンランドでは別の意味で問題だ。一番人気のクラブはリヴァプールで、放映回数も多い。最近はノリッジもよく映してくれているみたいだけど。両方見られるように、試合の時間が違うといいね」
さて、今回の取材の核心となる質問だ。セルティックで苦悩の日々を送ったプッキが、これほどの成功を収めることができたのはなぜか?
「別人に生まれ変わったからだ」と彼は答えた。「食事や睡眠にも、よりプロとしての自覚を持つようになった。メンタルも強くなった。セルティックではミスをすると下を向いてしまい、そのあとは試合に入るのが難しかった。私生活の変化も大きい。子供が生まれて、ピッチでの結果がすべてではなくなった。もっと大切で、守るべきものができたんだ」
カールでもつれた長髪に別れを告げたことも要因では? 旧約聖書に出てくるサムソンは力の源が髪の毛で、切られると力を失ってしまう。その逆バージョンかもしれない。プッキが「ハハハ!」と笑う。「そうかもしれないね。なんだかロングヘアが懐かしいよ」
2019年は「人生で一番幸せな年だった」という。29歳でプレミアリーグの舞台に立ち、フィンランド代表の中心選手になったプッキは、フットボール界では遅咲きと言われるのかもしれない。けれど、年齢なんて関係ない。過去がどんなものであっても、誰にだって挽回するチャンスがあることを彼は証明した。
ノリッジの食堂の貼り紙を思い出した。ヤツらはいつだって失敗だと言う。でも、テーム・プッキがここにいる。
※この記事はサッカーキング No.010(2020年2月号)に掲載された記事を再編集したものです。
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March 27, 2020 at 11:30AM
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